<脳は寄せ集めて組み立てられてる>
長岡@気流堂 2005年08月04日(木)11:00
 
 最近、脳づいているので、また今週も脳について。脳科学者の澤口俊之氏の著作を数冊読みました。
 氏は、脳の高次元認知心理学を研究されていて、脳神経学の立場から、意識はどうして存在するか?心はどこにあるのかを解説されています。
 氏は、青春時代、「自己とはなにか?」「心はどこにあるのか?」など、自意識の問題に取り付かれて、哲学書を読み漁るも、要領を得ず、その答えを、脳科学を研究することによって見出してきたそうです。
 氏の一貫した考え(セントラルドクマ)は、「心は脳にある」というものです。心=意識は、脳神経の興奮によって生じた電位差が、神経伝達物質を分泌し、シナプスを通して伝達され、様々な脳神経の複雑な作用によって生み出される現象であるとします。
 そして、その脳神経は、「モジュール」と「階層性」を二大特長とします。モジュールとは、似たような作用をする脳神経が束になり、コラムと呼ばれる単位を形成していることです。例えば、ある特定の色の刺激だけに反応する神経が集まって「**色コラム」を形成しています。それは、遺伝的にDNAいnあらかじめプログラムされているものです。
 次に、階層性についてですが、そのようなコラムがまた寄席集まって、複雑な反応を引き起こす際に、ピラミッドのような階層性になって働くのです。例えば、赤い色のりんごを認識する際に、低次元のコラムでは、赤い色、丸い形、りんごの香り、つや、それぞれのコラムが反応します。それが階層が上がっていくにつれて、それぞれのコラムを総合的に認識するコラムが反応し、そして、最終的に、私たちは、目の前に、おいしそうな、赤い、りんごという、クオリアを感じるのです。
 だから、ある疾患によって、脳の特定の部分が欠損すると、例えば、盲視のような現象が起きます。
 盲視とは、脳の視覚の部分に障害があって、その視野からは、物質は見えないのにもかかわらず、それを認識することが出来る現象です。私たちは、日ごろ視覚からの情報にかなりの部分を追っているため、見えなくて、認識できるということを不思議に思いますが、認識とは、様々なコラムが階層的になっているということを、改めて知ることが出来ます。
 そして、そのような脳の中でも、高次の意識を認識する部分が、今までの他の脳科学者も盛んに取り上げている、前頭前野領域です。
 前頭前野領域の発達の時期のリミットは、12歳ごろまでだそうです。生まれてから、脳が著しく成長する過程では、両親の愛情に包まれて、しっかりとした生存の安心感を基盤とすることが絶対に必要とされます。そうした上で、自然と触れ合い、様々な刺激を受けて、脳のコラムを活性化することが、大変重要だというのが、澤口氏の主張です。
 昨今のキレル児童や、電車の中でも化粧をする若者などは、成長の過程において、前頭前野が充分発達出来なかった結果ひきおこされた現象であると、氏はいいます。
 このように考えると、昔から文化として伝えられてきたことは、まっとうな脳の発達をするための社会財であったように思えます。最新の脳科学で、文化の再検討をすることが必要とされてきているように思います。

<「ゆる」めば変わる?>
長岡@気流堂 2005年07月27日(水)10:38
 
 運動科学を研究されている、高岡英夫氏の「意識のかたち」「からだには希望がある」を読みました。
 氏は、幼少のころから、武道の修行に精進し、そこから体得した、独特の「身体意識」を元にして、日本人のからだの復活を提唱されています。
 身体感覚とは、体性感覚的意識のことで、視覚的意識や、聴覚的意識とは異なる、身体の筋肉・骨格・内臓・皮膚・血管・
経絡・細胞等に成立する圧力感、流動感、接触感、質感、温感、気感などを根拠として成立するうする意識系のことです。
 脳に関していえば、大脳皮質を除いた、大脳辺縁系、脳幹などが機能を司っています。
 つまり、人間の動物としての本能を活性化して、大脳皮質が生み出す、様々な意識が邪魔をして、からだの必要でない部分ががちがちになっている状態を改善しようとするものです。
 しかし、その身体意識は、日本人としては、昔から、武道などによって、常に、意識され、日常における立ち振る舞いの中に染み付いていたものであったはずなのです。
 それは、臍下丹田と呼ばれる部分、「ハラ」の部分にあるセンターを常に意識する動きです。そうすると、余分な力が抜けて、楽に機敏に動くことが出来ます。
 高岡氏は、昔の武道家の肖像画や、日本舞踊の舞、浮世絵美人の姿を参考にして、からだに「ジンブレイド」という根幹を見つけ出します。それは、経絡の腎経のラインとほぼ重なりあうもので、それを自らのからだに創り出すことが、からだを心底「ゆる」ませることになるのです。
 ジンブレイドを創り出すことは、からだの動きを滑らかにするだけでなく、精神にも働きかけ、些細なこととらわれることがなくなり、自分をとりまく大きな力を意識することが出来るようになると説きます。
 私自身も治療の際、一番に心がけていることは、「からだを緩ませる」ことです。がちがちに固まったからだを、鍼灸により経絡を通じることで、緩んでいくと、おのずと、病は治っていきます。
 立ち振る舞いの美しい人、いつもほんわか周囲をあたたかいオーラで包んでくれる人、そのような人をじっくり観察していこうと思いました。

<オニババ化する女たち>
長岡@気流堂 2005年07月20日(水)20:06
 
 話題になっている「オニババ化する女たち」を読みました。晩婚・未婚、子供を産まない女性に対して、それは、女性の身体性に反した生き方であると警告する内容です。
 多分、この本を読む女性は、私同様「オニババ化する恐怖」を心の底で感じている人でしょう。
 男性側からそのことを指摘すると、フェミニズムの攻撃を受けたり、セクハラだ、女を子供を産む機械としてしかとらえていない、などとの批判に曝されると思いますが、同姓である女性、それも結婚し、子供を産んでいる女性(著者)から面と向かっていわれると、「ハイハイ申し訳ございません」とひねくれて卑下しまいがちになるのですが。
 読み始めにそのような気持ちになっていましたが、ジェンダー(女性の社会的な性)としての女性よりも、女という体という視点に立っての発言としてとらえると、確かに、現代女性の抱えている、身体的なトラブルは、女性としてのからだを、素直に生きていないことからくることに、治療の面からも気づかされます。
 そして、女性としてのからだを否定したライフスタイルを送っている多くの女性の世代(私自身も含めて)の母親の世代が、戦後、それまでの面々と受け継がれてきた、女性のからだを生き易くする知恵から切り離された世代であり、女としてのからだを否定的にとらえている世代だという著者の意見には自分自身の体験も踏まえて、同意するものがあります。
 つまり、オニババ化する要因は、二世代に渡って培われてきたものであり、生まれてから成長過程において、オニババ化世代は、女性性を否定的考えることを植え付けれてきたのであって、生殖年齢がリミットに近づいてきて、急に、生きかたの価値観を転換することはかなり困難であるということです。
 からだに対する気づき、からだの声に素直に耳を傾けて、解放してやるほうに、からだをゆだねる。
 オニババ化を防ぐには、そのような、からだに対する気づきが必要だと感じました。
 ただ、子供を産んだ女性に比べて、生まない(生めない)女性は、自他ともに存在を否定される圧力にさらされるものです。それを、オニババという心無い言葉で表現して、存在を否定するその姿勢には、賛同しかねます。

<知・情・意を生み出す脳>
長岡@気流堂 2005年07月13日(水)10:28
 
 脳科学者大木幸介氏の「人間を幸福にする脳という道具」を読みました。
 氏は、脳の分子レベルで解明する研究をされていますが、快楽を生み出すA10神経の働きを明らかにした方です。
 A10神経とは、覚醒・快楽情報を伝えるA系神経の10番目の神経のことで、脳幹から出発して、「欲脳」と呼ばれる視床下部、「やる気の脳」側坐核、「好き嫌いの脳」扁桃核、「記憶の脳」海馬に枝分かれし、そして、最期に大脳前頭葉の前頭前野に達する神経です。
 A10神経が情報伝達に使っている神経物質は、ドーパミンと呼ばれるホルモンで、麻薬や覚せい剤に似た物質が、人間自らの脳で作り出されているのです。
 ドーパミンの働きにより、人は、「幸福」な気持ちになります。
 私たちが、幸福を感じているとき、脳は、生き生きと覚醒されて、逆に、気分がめいっているとき、脳は、不活性化されているのです。
 幸福な状態とは、何か?それは、心の3つの構造「知・情・意」のレベルすべてが満たされている状態です。
 A10神経によって、その3つのレベルは結びつき、活性化されるのです。
 「知」は、大脳新皮質、情は大脳辺縁系、意は、間脳の視床下部で生み出されます。
 私たちは、何か夢を抱き、それを実現しようとしているときに、充実感と、幸福感を強く感じます。
 それは、具体的な夢をイメージする=大脳新皮質、夢の実現にわくわくして夢中になる=大脳辺縁系、よし、夢を実現するぞ!とやる気になる=視床下部、それらすべてが働くことが必要です。
 それらすべてを活性化させる秘訣は、とにかく、興味のあること、好きなことをやることです。興味のあること、好きなことをやっていると、脳が生き生きとしてきます。
 いつも、元気がよく、生き生きとして、幸せそうな人は、自分にとって、本当に好きなことを見つけ出し、それに取り組んでいる人なのでしょう。それが、脳を活性化し、ますます輝いて見えるのでしょう。

<脳梗塞になったら?>
長岡@気流堂 2005年07月06日(水)11:32
 
 経済人類学者で、前衆議院議員の栗本慎一郎氏の、脳梗塞の闘病記を数冊読みました。
 氏は、人間ドックに2週間入院し、すべて問題なく、退院しようとするその日に、病院から散歩に出かけて、脳梗塞の発作を起こし、そのまま緊急入院となったのでした。
 右脳中心部あたりが梗塞を起こして、かなり重篤な症状であったにもかかわらず、氏独自の脳理論を自らの病のリハビリにおいて実践し、日常生活にほとんど困らない程度にまで回復された記録です。
 私自身、リハビリ施設で、また、鍼灸の患者さんで、多くの脳梗塞の後遺症に苦しまれている方に接してきました。だから、栗本氏の驚異的な回復力には新鮮な驚きを感じます。
 そして、実際、病院のリハビリの現場でなされている、保険点数のカウントされる、リハビリの有効性に疑問をもっていただけに、最新の脳理論裏打ちされた、栗本式リハビリのやり方は参考になりました。
 そして、日本の脳梗塞治療における後進性が、それは、その領域の医学の体制も知識も人材も含めて、時間勝負であり、発作の3時間以内の治療がすべてを決める脳梗塞治療を、混乱と間違いに導いているという実感のこもった指摘を真摯に受け止めて、対策をとらなければならないと痛感しました。
 日本人の脳梗塞で一番多いのは、よく言われる、アテローム性血液どろどろではなく、ラクナ梗塞だそうです。これは、脳底の細い血管がつまって、もやもやした映像が映るのですが、これの治療は、全身の血栓溶解剤tPAが有効であるのですが、必ずしも、その治療方針が確立されていないそうです。
 だから、病院によって、まちまちで、救急で運び込まれた病院の治療によっては、命を落とす可能性もあるということがよくわかりました。
 それに対する対策は、日ごろから脳梗塞治療に積極的な病院を調べて、そこの治療を予防をかねて受けて、いざというときは、救急車を呼ばず(救急車は地域の指定された病院しかいかない)、自分でタクシーであらかじめ調べておいた病院にかけつけることだそうです。
 また、脳梗塞の予防としては、低容量アスピリンが有効なこと、そしてなにより、血圧を下げることが一番有効であるそうです。その上で、高脂血しょう、糖尿病などの要因をなくすことが必要です。
 脳梗塞の様々な前兆を感じたら、速やかに、MRIなどの脳の検査を受けましょう。

<汗をかいて湿をからだから出す>
長岡@気流堂 2005年06月29日(水)18:49
 
 昨日の猛暑、6月というのに、東京では36.5度を記録する暑さでした。
 そして、さらに高湿度。
 この湿度、東洋医学では、湿といいますが、これが、夏のからだに多大な悪影響を及ぼします。
 漢方薬のほとんどに、利尿作用のある成分が含まれていることからも言えるように、東洋医学においては、湿(からだに生理的必要な以上滞っている水分)を、からだにためることが、病の大きな原因の一つとなっています。
 臓器は脾(胃腸などの消化器をさす)に影響を与えるとされています。
 湿度が暑くむしむしすると、胃腸の働きが劣え、食欲がなくなったり、食あたり、下痢などが引き起こされます。
 また、神経痛の痛み、「ひ病」といわれますが、これも、湿により引き起こされるとされます。
 大気中の湿度が高いと、体内の水分代謝も滞りがちになり、神経伝達物質もうまく伝達されにくくなり、痛み、むくみなどの症状が引き起こされます。
 では、湿をからだにためないようにするにはどうすればいいか?
 まず、利尿作用のある食べ物を大いに食べることです。
 それには、夏野菜の瓜類、きりゅり・冬瓜・すいかなどを。いろいろくふうして必ず食べるようにすること。また、あずきは漢方では利尿薬として使われるので、あずきごはんや、あぼちゃと煮込む、いとこ煮などを食べてみてはいかがでしょうか?
 そして、日常生活では、しっかり汗をかくこと。暑いので、エアコンの効いた部屋になかりいると、からだが冷えるだけでなく、湿が滞りむくみの原因になります。
 ぬるめのお湯で半身浴もお勧めです。
 気流堂では、この夏出来るだけエアコンを入れずにいようと思います。
 冷たいミントの香りのお絞りで汗を拭き、アイスノンで頭を冷やしながら、お腹をあっためる。しっかり汗をかいて、また冷たいお絞りで汗を拭く。
 皆さん治療が終わったあとは「湯上りみたいにさっぱりした」と心地よさそうな表情をなさります。
 夏にしっかり汗をかくと、冬に風邪をひきにくくなります。
 ここ15年近く風邪を引いていない私自身の夏の健康法です。

<いのちの食卓>
長岡@気流堂 005年06月22日(水)11:51
 
 料理研究家の辰巳芳子氏の著作を読んでいます。
 氏は、料理研究家の草分け的存在であった、母上から直接の指導を受け、また、数々の師匠に師事し、いのちをはぐくむものであるという視点から、食の実践を提唱してこられました。
 ご自身の15年に渡る闘病生活の食を支えたのは、また、父上の8年に渡る脳梗塞の後遺症の半身不随の闘病を支えたものは、母がつくり、それを受けついだ、いのちのスープでした。
 様々な滋養が含まれ、消化が容易で、吸収がよい、スープは、寝たきりの病人であっても、離乳食の赤ん坊であっても、疲労のあまり、なにも口に出来ない者であっても、どんなひとでも、それを食することで、いのちをはぐくむことが出来る、そんなスープの作り方を教え、広められています。
 そのような氏の実践の根本には、「食」とはいのちの仕組みいn取り込まれているものである。という考えがあります。
 だから、食をおろそかにするものは、自分自身の、家族の、愛する人の、いのちをおろそかにすることであると。
 実際に、氏の料理の仕方を読むと、素材の厳選、手順、手間、そのすべてが、昨今の、簡単クッキングとは対極にあるものです。
 正直なところ、3食手作りをして、かなり、食に関しては、エネルギーの多くをさいていると自負している私にとっても、氏の料理法を実践することは、かなりの時間・労力・気力の面から難しいと感じました。
 しかし、私と同じような意見から、調理法を簡単にしてもうまくいくかという質問に対して、氏は「自分はそうしたことがないからよくわからない。時間は創り出すものだから」と答えます。
 いのちに組み込まれている食に対する姿勢には、決して、それをおろそかにしない、出来ない現れでもあったのです。
 だから、氏の料理を実践することは、生き方の根本からの深い省察を要求される、求道的な行為であり、いいかげんな気持ちでは、いのちのスープは創り出すことは出来ないのだとつくづく思いました。

<大脳前頭前野の働き>
長岡@気流堂 2005年06月15日(水)11:18
 
 大脳生理学者、川島隆太氏の著作を数冊読みました。氏は、大脳生理学者としての立場から、人間の脳の中で最も重要な部分は、大脳前頭前領域であることを、脳が動いているときの血流量をMRIによって測定することにより明らかにしました。
 前頭前野は、創造的な発想を司るところで、人間が他の動物に比べて、著しく発達している部分です。
 人間の知能、頭の良さは、遺伝的に決定されているのではなく、前頭前野の発達する時期に効果的な刺激を与えることにより、後天的に良くすることが出来ると氏は提唱します。
 創造力とは、それぞれ別個に反応している脳の各部分の神経細胞がつながることにより、新しい発想や考えなどが生まれてくるというのです。
 そして、その前頭前野を「鍛える」のに最適な方法とは、音読と単純計算だということが、MRIの測定結果から明らかになったのです。
 音読は、文字を読むことから、脳の視覚野を使い、文字の意味を理解するために、記憶野を使い、そして、読むことにより、声を出す領域を使い、そして、自分自身の声を聞くことにより聴覚野を使い、つまり、脳のいろいろな部分を使うことにより、MRIの映像でみると、血流量が高まり、真っ赤な状態になっているのです。
 しかし、その反対に、テレビ・ビデオを観ているときの脳の状態は、全体的に血流量が減少し、つまり、受身のリラックスした状態になっているのです。
 脳神経をつなげるためには、脳にたくさんの血流を送り込み、活性化させなければなりません。
 そして、前頭前野が著しく発達するのは、生後3歳までと,10歳〜12歳の時期だそうで、その時期に、テレビ・ビデオ付けになっていると、前頭前野の発達が促されないことになるのです。
 もう、すでにその時期を過ぎてしまった大人である私たちは、もう手遅れなのかというと、必ずしもそうではなく、氏は、認知症のお年よりに簡単な計算や音読を繰り返す実験をすることにより、痴呆の症状が緩和されることを証明しました。
 かなり脳が萎縮している方でもそうなのだから、まだ私たちの脳も「鍛えれば、伸びる!」と期待していいのではないでしょうか?
 単純な私は、早速、半身浴をしながら、音読をすることを始めました。
 さて、効果は出るでしょうか?

<看護と甘え>
長岡@気流堂 2005年06月08日(水)14:25
 
 先日、映画「火火(ひび)」を観ました。女性古信楽作家を主人公にしたものです。
 彼女は、離婚して、女で一つで二人の子供を育てながら、苦労して執念で、古代信楽焼を復活させます。
 彼女の本音の生き様は、子供を始め周囲のものは圧倒されます。
 作品も徐々に認められつつある最中、長男が、骨髄性白血病にかかります。助かる可能性は、骨髄移植を受けることしかないのですが、ドナー提供者を探すのに、必死の思いで奔走します。
 そんな中、なかなか見つからない提供者に、悲観的になった息子が、「僕は死んでしまうんだ」と弱音を吐きます。
 普通の母親ならば、そんな息子の悲壮な悲鳴になすすべもなく、辛さを思いやり、自分はなにも出来ない苦しさに耐えるでしょうが、彼女は「死ぬなら死ね。」と、突き放すようにいい、死の恐怖におびえる息子の甘さも、許容しようとはしません。
 それは、彼女自身が、誰にも頼らず、ごまかしなく、自分の欲望に正直に生きてきた強さがあるから、そのようなことがいえたのでしょう。そして息子も、彼女の叱咤激励により自分自身の弱さを克服して、あきらめずにドナーを探そうとします。
 病にかかることの辛さ、理不尽さを、誰かに分かってもらいたい、分かってくれないことの苛立ち、孤独感は、ともすれば、看病をしてくれる、身内を始め、周囲の人に、わがままをいったり、辛く当たったり、愚痴ったりしてしまいます。
 病の辛さがそれで消えるわけではないのですが、そうでもしなければいられない切羽詰った状況になっているので、周囲のものも多めにみて、許容してしまいがちです。
 でも、それは、本人も周囲も、病人として、彼を特別視し、甘えさせているのだと思います。ただでさえ苦しいのだから、それぐらい許されてもいいのかもしれません。
 しかし、病気になるということは、からだが病におかされるのであって、心まで病人になってしまっていいのでしょうか?
 「火火」の母親の毅然とした態度を見て、人を甘やかす人は、自分にも甘いのだ、と、わが身を省みてそう思いました。

<本日はお世話になりました。>
Lillian 2005年06月05日(日)22:18
 
 長岡様
本日は有り難うございました。
すっかり、アート関連の方だとばかり思っておりました。
私もホリステイックにはかなりの興味がありますが、それに対する裏付けの理論が伴いません。
自身も大挙拳、、気功、空手、ヨガを実践しましたが、ヨガが一番合っているようです。

今度、是非、お伺いさせて下さいませ。
宜しくお願い致します。

<クオリアと健康>
長岡@気流堂 2005年06月01日(水)10:24
 
 脳科学者の茂木健一郎氏の著作を読んでいます。
 氏は、「クオリア(質感)」を脳細胞の機能から解き明かそうとされています。
 クオリアとは、われわれが、この世界を、ありありと、生き生きと、感じられるということで、哲学の現象学で取り上げられている、「志向性」の感覚を、脳の機能から解き明かすものです。
 外界の刺激に対する感覚、また、身体を動かすという運動機能が、脳のどの部分を刺激することによって、発生するということは、脳生理学の分野でかなり研究がすすめられてきました。
 しかし、同じ赤という色を感じるとしても、私たちは、個人(主体)にとって、「バラの赤」なのか、、信号の赤なのか?事故を目撃したときの血の赤なのか?怒った顔の色なのか、それぞれ、赤のクオリアが違っています。
 それは、脳神経の局在の興奮の次元よりもう数段階高次の、それぞれのネットワークが結びついて出来るものだそうです。
 そして、それは、それを感じているその人それぞれによって、体験により、感じ方により違ってくるらしいのです。
 まさにクオリアが、「この私」とでもいえるでしょう。
 病気になったとき、なんとなく元気が出ないとき、私たちは、日ごろの何でもないことが面倒になったり、色あせてつまらないものに感じたりします。
 それは、病気によって、私たちの注意が自分のからだの感覚に閉じ込められてしまって、外界の刺激を取り入れることが出来なかったり、ゆがんで取り入れたりしてしまっている結果なのかもしれません。
 健康であるということは、私たちのクオリアが外界の刺激を、意識と無意識のバランスをうまく取りながら取り入れ、世界が生き生きと感じられることなのかも知れません。

<捕われと委ね>
長岡@気流堂 2005年05月25日(水)11:23
 
 夏樹静子氏の「心療内科をたずねて」を読みました。氏は、前著「椅子が怖い」の中で、自身の重度の腰痛が、身体の機能的障害からくるものではなく、実は自身の心の中の捕われが病を創り出していた心身症であった体験とその治癒までの過程を著しています。
 「心療内科・・・」は、そのような氏の体験から、同じように心の捕われに自ら病を創り出し、それに苦しんでいる患者さんたちにインタビューをしています。
 夏樹静子氏は、自身のことを、どちらかというと理性的・論理的にものを考える性質があるととらえていたために、その腰痛が、心身症であるなんて、当初は全く受け入れることが出来なかったそうです。
 しかし、どんどん症状がひどくなり、あらゆる治療も効果がない、いわば、どうにでもなれの気持ちになったときに、神経症の治療の一種である、森田療法や、絶食療法などの治療を1ヶ月の入院で受けられました。
 その際に、主治医の先生が「夏樹静子(作家としてのペンネーム)の葬式を出しましょう。」と氏に申し渡しました。ものすごい抵抗を感じながらも、彼女は、そうするより他ないと考え、作家としての自身のアイデンティティを放棄しました。
 すると、今まで激痛に襲われていた体が、球に楽になり、嘘のように痛みが消えていったのでした。
 「この病気には自分にも責任があったのだと気づき、己の非を認めた。そんな人間はだから自分で責任を取りますというのではなく、むしろ逆にもうこの身は何ものかに委ねてしまってもいいと思うものなのだろうか?自分の預かり知らぬ例えば生命の神秘のようなものにいっさいをまかせるほかにすべがないのだと私は心底納得したのだ」
 と。治療のきっかけとなった、心境の変化をこう綴っています。
 こう考えると、病とは、自分自身の体という自然を支配して、自由に好き勝手できるるつもりになっている人間に対する警告かのかもしれません。
 

<疲れと興味>
長岡@気流堂 2005年05月19日(木)17:01
 
 最近疲れやすくなったとか、仕事をしていると疲れるのだけれども、遊びや好きなことをしていると、全然疲れない。あたは、かえってリフレッシュされて元気になる。
 そのような経験がありませんか?
 同じようなことをしていても、何故だか、非常に疲れるときと、そうでないときがあったりする。。。
 不思議なもので、人は興味のあるもの、楽しいと感じることをするときには、疲れないようになっています。
 子供のとき、夢中になって遊んでいたときは、時間を忘れ、疲れなんて全く知らなかったことを思い出しませんか?
 では、どうして興味があったり、やりたいことをしているときは疲れないのでしょうか?
 それは、そのようなときには、身体が無意識に、疲れないような動作、姿勢をとっているからです。
 また、そのようなときは、脳内に快楽物質エンドルフィンが放出されて、からだをきもちいいリラックスした状態にしているのです。
 だから、介護や育児をしていて腰を痛めたとか、肩が凝るなどの症状に苦しめられているとしたら、もしかしたら、心の底では、介護や育児をいやいやしていたのかもしれません。
 誰だって、いつも興味を持ち、楽しく、介護・育児をすることは難しいです。
 だから、それらをしているときに、ものすごく疲れを感じるとしたら、少しだけ、対象から離れて、その行為の中に、何らかの興味、楽しみを見出すようにしてみると、疲れが違ってくると思います。

<園芸療法の効果>
長岡@気流堂 2005年05月13日(金)21:47
 
 精神科医野田正彰氏の著書「気分の社会の中で」「背後にある思想」を読みました。氏は、「サカキバラ」事件や、オウム事件などの一連の社会を騒然とさせた犯罪について、精神科医としての立場から積極的に発言をされています。
 氏は、マスコミがそれらの犯罪を、世間の関心を煽るがために、「シロウト」の精神判定結果などを無責任に公表することへの警告や、自重を促しています。
 さらに、イギリスへの研修旅行で見聞した「園芸療法」ついて紹介しています。
 それは、精神的に病んだり、重い病を長期間患っている人が、「自分はなんのために存在しているのか?」と、自分の存在に対して自責の念にかられることを防ぐための療法です。
 植物との触れ合い、世話を通じて、「自分が水をやったり、世話をしなければ、生きていけない」植物の存在を通じて導き出すのです。
 私自身にもそれは当てはまると実感しています。春になり、冬の間育ててきた様々な花がいっせいに咲き、そして、今度は、夏の花への植え替えの時期にさしかかって、今は次の花のことで頭が一杯。
 頭の中は、真夏の日差しの中で、たくましく花開く花のイメージが次々と沸いてきています。
 治療院を始めて、家の周りに花を飾ることを始めてから、自分のようなずぼらで大雑把なものが、毎朝まめに水をやったり、肥料をやったり、草をむしったり、花柄をつんだし、病虫を駆除したり、まめまめしく、花のために、いそいそとしているのに、驚いています。
 それは、いくら東京の都会といっても、植物という生き物を育てるには、日差し、温度、土水、虫等々、自然を考慮せずにはいられず、それらの複雑な要素が作用しあって、日々微妙に成長し、花開いていくことの神秘に、圧倒されたからです。
 植物によって癒されるというというよりも、もっと積極的に、ただ生きる、という、エネルギーを与えられている気がします。

<自然とは、手付かずの状態ではない>
長岡@気流堂 2005年05月04日(水)19:59
 
 環境社会学者、富山和子氏の著作「環境問題とは何か」「水の文化史」「水と緑と土」を読みました。富山氏は、「水田はダムである」という説を最初に提唱されたように、日本に古くから伝わる治水事業を、単なる川の浚渫工事として捉えるのではなく、広く、水源となる森林から水田をも含めた、水をめぐる国土全体を眺める包括的な視点から示してくださいます。
 氏の視点は、一環して「自然は何もしない手付かずの状態では保たれない」というものです。
 それは、人為的なもの=自然の侵害・破壊というとらえかたをする、ナイーブな自然保護運動と、時には、真っ向から反対の立場を時にはとることにもなります。
 人間が、そこから深い恩恵を受けることができる自然とは、手付かずのままの状態では、維持することができず、それに手を加え、加工することによって、初めて自然との共存が可能になるものです。
 しかし、その加工のやり方が、日本に昔から伝わる自然との折り合いの文化を無視し、完全にそれを人間の力でコントロール可能にしてしまう、現代の土木工事は、かえって、荒ぶる自然の力を呼び起こしてしまうことも警告されています。
 私は、氏の、そのような自然観は、東洋医学における、からだの捕らえ方、病の治療の仕方に通づるところがあるように思います。
 東洋医学において、からだは、国土に水が流れるように、気血水がとどこおりなくめぐることが、健康なからだであると考え、そして、病を強力な薬でもって、抑えてしまうのではなく、自分自身のからだの持つ治癒力を呼び起こしながら、あたかも、洪水の水を、水田や、用水路に流すように、うまく押し流していく。
 結果として、病を治癒することで、からだを丈夫にしていく、という思想です。
 しかし、自然と同様、からだも、何もせず、いたずらに暴飲暴食・ストレスなどにより、酷使したりすることは、本来のからだに対する態度ではないと思うのです。
 からだも、手をかけ、手入れをし、健康な状態を常日頃から維持する努力が必要だと思います。

<中国人の実証主義>
長岡@気流堂 2005年04月27日(水)11:22
 
 ここのところ、中国国内では、日本の国連常任理事国入りと靖国参拝、尖閣諸島の領土問題などを端に発したデモが繰り広げられています。
 インターネットによる扇動と、中国共産主義政府の黙認もあって、かなり大規模に繰り広げられたように日本のマスコミは報道していますが、中国在住の方からの情報とかなりかけはんれた印象を受けています。
 何はともあれ、このような認識の違いには、一言でいえない国民性の違いが大きく横たわっているように思えます。
 中国といっても、多民族国家で、民族・言語。習慣などひとくくりにできない多様性がありますが、古来から培われてきた中国人としての国民性は、やはり、日本とはかなり異質であるということで、ある種のまとまりを感じます。
 最近、中国美術史研究家の西村康彦氏の著作を数冊読みました。
 解放間もないころから30年以上に渡って、深く中国にかかわり、探索されている氏の深い中国に対する洞察には、いろいろ教えられるところがありました。
 著書「天怪地奇の中国」は、中国に古書の中に登場する、天変地異な人物・出来事を著者の意見をまじえて紹介したものです。
 その中で、中国人の実証主義について述べられているところに、今まで、中国の鍼灸の古典に感じられる理解しがたい思想に対する疑問が少しだけ解けたように思いました。
 よく言われるように、中国人は実証主義であるといわれます。実証主義とは、観念主義に対する言葉で、平たく言えば「現実的」であるということです。
 鍼灸を始めとする東洋医学の世界においても、古典の内容は、古代の王様が医者に問いただすという内容になっていて、その王の存在も確かではなく、まるで、御伽噺のような感じなのです。
 しかし、かかれている内容は、非常に実証主義で、多分古来から解剖・治療・投薬などの実際の行為による実験を経て確立されたものがベースとなっていると思います。
 だから、それらは、高い確率で効き目があるので、現代の鍼灸においても、治療のベースとして使われています。
 しかし、何故、そのような実証主義的な内容であるにもかかわらず、物語のような形式をとるのか?また、陰陽五行説のような迷信・宗教のように思える観念的なものも、その治療体系に取り入れて、実際効果を上げているのか?
それは、ひとえに、からだという、実証主義ではとらえにくい領域に対する、中国人のアプローチの仕方ではないかと思うのです。
 西村氏は、中国人を「遥かな昔から不可解、不思議、奇怪、巧妙といった現象や事物が場所も時もえらばずに、日常茶飯に目にされた中国では、自分の力で解明できること、納得のゆくことと、そうでない物が鮮明に区分されているのである。この区分こそ中国人が常に生活の中に持ちつづけた特質のひとつではなかったか。理解できる事象については、この上なく現実的、合理的であり、そうでないものについては、空想が限りなくふくらみ途方もない発展をみせる」と言っています。
 だから、自分自身のからだについても、中国人は、実証主義的に探索しづつけたのだと思います。しかし、調べれば調べるほど、からだは未知で、不可思議であるという思いにつきあたり、もともと、西村氏が指摘したような傾向をもつ中国人は、物語、迷信・宗教とも結びつけて、身体をとらえようとしたのではないかと思ったのでした。

<フォームの確立>
長岡@気流堂 2005年04月20日(水)19:09
 
 初夏を思わせるような陽気かと思うと、一変冬に逆戻りしたような寒さ。
 ソメイヨシノは散りましたが、八重桜はこれからが満開、様々な花が百花繚乱の態をあらわしています。
 でも、このような華やかであるけれども、変わりやすい天候のこの時期は、気分の方は、いまいちやる気にならない、頭が重いといった、軽い鬱状態に陥りやすくなります。
 誰だって、気分の浮き沈みはある程度あるものの、それが、日常生活に差し障りが出るほどであるのならば、その対策を考えたいものです。
 私の場合、それは「フォームを確立すること」によって、そのダメージをあらかじめ最小になるように予防しています。
 「フォームを確立する」とは、何ぞや?
 これは、ギャンブラーの前歴を持つ作家、故色川武大氏の言葉です。
 氏は、運・つきがすべてのギャンブラーの世界において、スランプを乗り切る方法として、自分自身のフォームを確立する方法を提案します。フォームとは、日常生活の様々な習慣から、その人特有の様々なジンクスなど、とにかく、常日頃から決まったフォームを形作ることが必要だと説きます。
 それによって、運・つきの波の最低の振幅の大きさを軽減し、結果的に長い目で見て、勝ち越すことを可能にするのです。
 私自身も、自分自身の生活は、自分なりに時間をかけて築いたフォームがあります。
 例えば、どんなに前日遅くても、朝5時には起床すること。ヨガを40分すること。ウオーキングを1時間すること。スクワット100回(何回にわけて)等、毎日、どんなに気分が乗らなくても、必ずすることにしています。
 その習慣が身につくまで、苦痛でしたが、一旦習慣化されると、それをしないでは、何だか気持ち悪いような気がするようにまでなりました。
 そうすると、不思議と、からだがだるいとき、気分が落ち込んだときも、それらの日課をこなしているうちに、少なくとも、普通のレベルの状態にまで回復することが出来るのです。
 自然界のものすべてが、振幅を繰り返しながら波のように変化しつづけています。
 そうであるならば、その振幅の中心の状態(ゼロの位置)を一定に維持することが、からだを健康な状態に保つ秘訣だと思います。

<前ガン細胞>
長岡@気流堂 2005年04月13日(水)11:38
 
 区の子宮ガンと、乳がん検診に行ってきました。それらの女性特有のガンにかかるリスク(年齢・出産経験の有無等)から、高い部類に属するのと、これらのガンは早期発見において、治癒する確率が高いために、検診の有効性が認められているガンであるのとで、少々抵抗がありますが、受けてきました。
 事前にネット上で評判のいい産婦人科を探して行ったからか、とても親切丁寧に子宮ガンについての解説をしていただきました。
 子宮ガン検診では、ガン細胞の有無(もちろんすでに子宮ガンにかかっている人はガン細胞がありますが)ではなく、ガンになる可能性のある一歩手前の前ガン細胞の有無を調べるのだそうです。
 前ガン細胞とは、このまま2〜3年そのままにしておくと、ガン細胞になる可能性の高い細胞で、ガン細胞とは違うのだそうです。
 そして、その前ガン細胞は、正常な細胞に戻る可逆性もあり、不可逆性のないガン細胞とはそこのところが違うそうです。
 子宮ガン検診は、細胞診であるために、そのようにガンのグレーゾーンまで明らかになるのだと知りました。
 だから、例え前ガン細胞が見つかったとしても、ガンに移行しないような、生活全般の改善を試してみる予知があるわけで、ガンを発見即手術という別のガンよりも、子宮ガンの場合ずっと、早期発見の意義があるのだなあと思いました。
 それでも、やはり、検診に抵抗のある女性も多いと思います。私は、利用しませんでしたが、オーキッドクラブという患者である女性のからだを主体として考え治療していく産婦人科医の団体があります。
 そのような意識をもつ産婦人科医に積極的に検診を受けられることをお勧めします。
 自分のからだは自分で守るという、主体的な取り組みが、これからの女性の健康のためには必要だと思います。

<それぞれのQOL(クオリティ・オブライフ)>
長岡@気流堂 2005年04月06日(水)11:19
 
 1987年に乳がんによる転移で死去した、ニューヨーク在住のジャーナリスト千葉敦子氏の闘病記を数冊読みました。
 きっかけは、英米文学者の亀井俊介氏が、同じく乳がんで亡くなられた奥様の最期につきそわれて、ガン告知や延命治療、QOLについての疑問を提示した著書の中で、亡くなられた奥さんが強く関心を持たれて、共感を覚えていらしたが、かなり対照的にガンに向かい合ったという部分を読んだことでした。
 千葉敦子氏は、私自身学生時代に、朝日ジャーナルにガン闘病記を現在進行形で連載されていた手記を感動しながら読み、そして、彼女が亡くなれたときに、全力で戦って、力尽きた戦士の死を悼むような気持ちになったことを覚えています。
 それほど、彼女の伝える闘病、特に抗がん剤による副作用のすざまじさを心に植付けられたきがします。
 彼女は、ジャーナリストとして、そして、自律した、自由なフェミニストとして、当時あまり一般的でなかった、ガンの告知を積極的にうけ、自分自身で最良とする治療を選択し(そのためにはアメリカの高額な医療を受け)、そして、充実した人生を送るために、最期の瞬間まで友人の力をかりながらも、自立して生活を送りました。
 彼女にとって、ガンという病に冒された自分自身の体験を客観的に見つめ、人々に伝えることが、ジャーナリストとしての使命であり、充実した人生を少しでもながく過ごすため、助かるという希望をもちつづけるために、重い副作用にもかかわらず抗がん剤を投与しつづけました。
 最近、さかんにQOLが言われています。治る見込みのない患者に、手術・抗がん剤投与をやめ、その副作用に苦しむよりも、モルヒネ等の痛みの緩和によって、出来るだけ日常生活をおだやかに過ごすことで、家族をはじめとする親しい人々との余生を楽しむ。
 千葉敦子さんの生き方とは、生活を楽しむ部分は共通していますが、肉体的な苦痛をあえて回避しなかったところが、違うような気がします。
 ただ、それを選択したのは、彼女自身であり、そうすることが、彼女のQOLを高めることであるということで、人それぞれに、何を優先するかということで、QOLが違ってくると思うのでした。

<木の芽時>
長岡@気流堂 2005年04月04日(月)07:49
 
 「木の芽時のこの季節は、体調がすぐれない。」。このような言葉を年配の方から聞きます。
 春の陽気に誘われて、木の芽がむくむくと伸びだしてくる毎年この時期になると、体調を崩す人も多いようです。
 寒い冬が終わり、ようやくあたたかな日差しの春がやってきたというのに、頭痛・眠気・だるさ、さらにアレルギー体質の方は、喘息・アトピー・花粉症etc・・・様々な症状に悩まされます。
 どうして、この「木の芽時」に、そのような事態になるのでしょうか?
 それは、この時期が、自律神経が大きく変動する時期なため、身体がその変化についていけなくて、環境の変化に対応できないためです。
 地球の北半球の住民は全員、冬は自律神経の交感神経が優位に、夏は副交感神経が優位になります。そうすることによって、冬の寒さ、夏の暑さに対しえ、身体内部の環境が一定に保たれることが出来ます。
 春は交感神経から副交感神経に、秋は副交感神経から交感神経優位に変化する時期なため、身体がその変化についていけなくて、自律神経の緊張を強いられ、上のような症状が生じやすくなるのです。
 特に、秋よりも、春のほうが、冬の間に交感神経によって、緊張していたからだが、春の陽気にによって一気に緩むため、血管の収縮や神経伝達物質の流れがスムーズに行われなくなります。また、春は、日本列島につぎつぎに低気圧がやってきて、気温・湿度・気圧が変化しやすいことも、「木の芽時」という言葉が生まれる要因になったのでしょう。
 では、このような時期を、うまく乗り切るにはどうすればいいか?それは、やはり、「自律神経を鍛える」ことが一番です。そうすることで、自律神経が外界の変化に速やかに対応できる柔軟性が生まれてきます。
 自律神経を鍛えるには、やはり、冷暖房を出来るだけ控えて、暑さ寒さに皮膚をさらすこと。乾布摩擦や、お風呂で温水・冷水を交互に浴びること等によって、皮膚からの刺激を常に脳の自律神経の中枢に送ることによって、活性化しておくことが必要になります。

 

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